いろはにほへじん

へじんの少し真面目なつぶやき

無知は罪か。

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何も持たず産まれた私たちは、時間をかけて一つずつモノを得ながら、生きます。

 

そのうちの一つは知識と思考力。

 

机の上での勉強、自らの経験、また多種多様な表現物を五感で感じ、脳と心を動かし、知識と思考力を養っていきます。

 

もちろん興味分野や環境によって、その深さも違えば、まったく知らないこともあります。

 

けどどれも0から始まり、1になって、それから増えて行くのです。

 

 

私たち大人は熱くなったヤカンを直接触りません。

しかし「火で熱くなる」ヤカンを知らない子どもは触ります。

 

こんな些細なことまで私たちは両親や先生などの保護者から、もしくは自ら体験して学び、習得し、生きていくのです。

 

 

 

 

 

今の社会はまたたくの間に変わっています。

 

新しい概念ができ、新しい文化ができ、今の正義が生まれ、「今」と向き合い、「明日」を築いていきます。

 

昔の「当たり前」は、今や「犯罪」もしくは「道徳に反するもの」となり、またその逆もあるのです。

 

もちろん社会の流れのままに生きるのも良くはありません。

 

触れた情報は知識となる。

 

それを今まで養った思考力で、自分で考えていく。

 

その上で自分のものになっていく。

 

どんなこともそう。

 

大好きな哲学者の言葉

人間は考える葦だ。

 

人は考えてこそ、人である。

考えない人は、葦と何も変わらない。

 

 

考えて、成長して、変わっていくことに人間らしさがある。

 

 

 

 

 

幼い頃から差別は身近なものでした。

 

「女性は将来子どもを産んで、良いお母さんになればそれでいい。」

 

「韓国人だから日本嫌い?」

 

「日本に住んでるから反韓親日だ。」

 

「アジアから来たから・・・」

 

 

書き切れないくらいのたくさんの言葉と行動。

 

書きたくもないたくさんの言葉と行動。

 

 

性別、国籍、住んでるところ、育ったところ、宗教、身分、学歴。

まだ二十歳の、有名人でもないただの一般人のへじんが、それらの特徴を理由に無数に受けた差別、偏見。

 

 

 

 

 

けどわかることは

そういうことを言ってくる人は皆知らなかったんです。

 

 

偏った情報で溢れかえるメディア。

直接関わらなかった結果。

たった数回の経験で決めつけたこと。

 

 

 

 

彼らは皆、無知でした。

 

 

 

 

 

 

 

自分で考えない。

一つの情報源にのみ頼り。

実際触れ合ってもいないことに対して決めつけ。

自分の世界を、本当の「世界」であり、「正解」であると思う。

 

 

 

 

皆、無知でした。

 

 

 

 

こんな社会は良くない。

当たり前の幸せを皆感じ取って欲しい。

差別を無くしたい。

 

 

上手い方法なんてわからない。

だから身近な人から、関わった人から、

「本当にそうだと思う?」

「他の人はどうかな?」

「へじんはこんな経験もしたことあるよ」

 

できるだけ自分で考えられるように。

考えて選択できるように。

 

 

それでも半分以上の人から言われることは、

「そんなことない」

「世間知らず」

「まだ幼いから」

「歳をとればわかる」

「真面目すぎ」

そしては

「知らなかったから別にいい。」

 

 

 

差別用語を使う人。

「それは差別用語だよ。その対象となって傷ついている人もいるよ。」

返ってくる言葉

「知らなかったから別にいい。」

 

 

 

 

差別を受けたへじんに

なんでそんな返事ができるかわからないけど。

 

社会はどんどん変わってきて、変わり続ける。

 

当たり前だった奴隷制度は、今や当たり前のようにあり得ない。

 

当たり前だった女性は持てなかった参政権、今や当たり前のようにそんなことがあり得ない。

 

 

 

たった数十年前。

たった百年前。

 

 

 

過去の当たり前が、今の当たり前ではない。

 

 

歳は何もその「世界」が「正解」であるとはしない。

 

その環境のマジョリティの声が、「正解」を作るわけではない。

 

 

 

 

 

しかし受け入れない。

 

 

無知だから。

 

 

 

そんなの自分の世界には無かった。

 

 

 

 

 

 

わからないから。

 

 

世界はもっともっと広いこと。

 

もっと多種多様なこと。

 

区切ることなんて本当はできないこと。

 

 

 

区切りは人が作ったもの。

時間と共に変わってくるもの。

変わってきたもの。

 

言葉でさえ、いとも簡単に変わった。

 

 

 

 

それに人は慣れてきた。

 

生きモノに与えられたもう一つの幸福、慣れ。

 

新しいものを当たり前にしてきた。

 

そしてその慣れを忘れ、また新しいことへ不安になる。

 

 

 

 

 

そして無知を受け入れること。

きっとこれの方が難しくって。

 

 

大人になった私たちは

「知らない」

と言うのを恐れる。

 

 

幼かった時はあんなに何でもかんでも聞いてたのに。

今はそう聞くことが「恥」だと思う。

 

 

 

でも実は私たち、

この人生が今回が初めましてで。

その年齢が初めましてで。

今の時代が初めましてで。

 

 

知っていることより、わからないことの方がもっともっと増えて行くような今の時代で。

 

 

だから継続して学ぶことが本当は大切で。

 

 

無知は実は当たり前なことで。

 

 

だから無知であることに気づくこと、

それを受け入れることは大切で。

 

それでやっと知を得ることができて。

 

 

 

 

 

 

 

無知は罪か。

 

 

 

 

 

無知は罪ではない。

 

 

 

 

無知であることに気づかないこと

無知である自分を受け入れないこと

成長しようとしないこと

 

それが罪である。